数年前のニュースで開園予定であった保育園が、近隣住民の苦情によりやむなく開園を断念するという残念な話があった。苦情の理由は子どもの声がうるさいという事でやるせなさを感じる出来事である。
子どもの声は今も昔も当たり前の風景として同様に存在している筈であるが、なぜ今になってこの様な問題がクローズアップされるのであろうか。そこには現代に潜む様々な問題点が挙げられる。
[希薄な近隣関係]
現代の問題点のひとつとして近隣関係の希薄さが目立つ。都市部の地域については前々からよく聞く話ではあったが、地方においてもこの流れが広がっているのではないだろうか。
ひと昔前の近所付き合いにおいては、家族ぐるみの付き合いが親密でいっしょに行楽地に出かけたり、お料理を分けあったり、用事の時は子どもをお隣さんに預けて面倒をみてもらうなどさまざまな交流があったような記憶がある。遠い地に住む親戚よりもご近所の方々のほうが家族に近い存在であった。
その様な関係であるからにして、近所のお子さんは他人であるとはいえ、自身の子どものように気にかける存在であったように感ずるのである。近所のおじさんやおばさんに可愛がられたり、時には叱られたりと煩わしさを感じることもあるにはあったが、思い返せば暖かさに満ち溢れた時代だったかもしれない。
しかし時は流れ、現代は個人のプライバシーを尊重する文化への変化が著しく、今やお隣さんがどんな仕事をしているのかすら分からず、そんなわけで個々の家庭の子どもたちへの関心も薄れていくのは当然の流れなのかもしれない。
保育園の開園に対して近隣住民から苦情が出るという背景には、近隣関係が希薄になったが故に身近に暮らす子どもたちへの関心の薄れという事が大いにあるのではないだろうか。
[注意をしなくなった大人たち]
近所のおじさんやおばさんに叱られる事も日常茶飯事的だった時代から年を経て、現代においては他人の子どもなど叱ろうものならば、うちの子に何をすると苦情を受ける様な風潮に変わった世となり、子どもに干渉できなくなった事もまた子どもに対する関心が薄れる事に繋がったのではないだろうか。
子どもへの関心や繋がりが薄れれば、騒ぎ声が聞こえてきたならばただの騒音としか思えなくなるという気持ちも解らなくはない。
そして他人に自分の子が干渉されるのを嫌う親たちはその分、しっかりと我が子を注意できるのかといえばそうとも言えない。子どもに注意できなくなった親は確実に増えている。
子どもは元気であるべきだが、騒いでも良い時とダメな時のケジメを学ばせるのは必須であるはずだが、場をわきまえない行動も放置して、ママ友との会話に夢中になっている親たちが散見されるのは事実。
騒ぐ事への制御が効かなくなった子どもたちの喧騒が近隣住民の苦情を招く結果となる事もあり得る話である。
[カギは地域交流]
近隣から苦情を頂くような事態を避けるためには積極的な地域交流がひとつのカギになるのではないだろうか。
例えば保育園、あるいは幼稚園のイベントとして楽器の演奏をするような機会がよくあるが、それを地域のお祭りの中であるいは老人ホームのお祭りなどに子どもたちを招待して演奏を披露するなどの機会があっても良いだろうし、あるいは私の住む地域の中学校では生徒が保育園に出向き、1日保育士として園児の面倒をみるという企画があるのだが、その様な様々な交流の機会を持つことが、保育園と地域住民の壁を取り除くことに繋がり、お互いに共存していける関係を築いていけるのではないだろうか。
[まとめ]
ここまでを振り返ってみる。
近所同士のお付き合いが希薄となった結果、近所の子どもへの関心が薄れ、子どもの親は他人からの干渉を嫌うことから他人の子どもを教育したり、あるいは叱るような機会もなくなり、更に子どもという存在が遠くなり、自身とは関連のない施設が騒音を出そうものなら、そればかりが気になって苦情などに繋がっていくという悪循環がニュースにあった様な事態なのではないかと私は考える。
今回のような事態に直接関わりのない第三者から見たら、将来を担う子どもたちが集う保育園の開園を妨害するとはけしからんという感情が芽生えたりという事もあるかもしれないが、その様な流れに至った背景を一歩踏み込んでひとりひとりが考えてみるという事が社会問題の解決のヒントになるのではという思いでこのニュースの背景を考えてみた次第である。